海舟は江戸時代末期に、御家人である勝小吉の長男として生まれました。勝家はお正月の餅を用意するお金もないほど貧しかったといいます。
海舟は十三・四歳の頃から剣術修行にはげみ、やがては直心影流の免許皆伝を受けました。
また西洋の学問「蘭学」をも熱心に学びはじめました。
貧乏であった海舟は、当時非常に高価だったオランダ語の辞書を何とか借りることに成功すると、何と58巻全て書き写すという、前代未聞の方法で、自分の辞書を完成させました。
しかも2冊作り、一冊は売って、お金にしたそうです。
やがて蘭学の塾を開いた海舟には、西洋式の鉄砲や大砲の製造も依頼されるようになりました。
アメリカより開国を求めてペリーが来航したのは、ちょうどそんな時でした。海舟31歳の頃です。あわてた幕府は、広く意見を庶民にまで募集し、海舟も、意見書を提出しました。西洋式の兵学校を設立して、優れた人材を育成することや、外国との交易を進めること、海防の強化などを記した海舟の意見書は、幕府の目にとまりました。こうして海舟は、幕府に登用されることとなったのです。
そして海舟の提案通り、長崎に海軍を育成する「長崎海軍伝習所」ができると、幹部生としてここに派遣され、海軍の技術を学んだのでした。
幕府は開国し、外国と貿易していくことを決めました。その条約書を交換するため、幕府の使節がアメリカへ派遣されるのですが、さらにもう一隻、訓練を兼ねて日本の軍艦・咸臨丸も派遣することとが決まりました。その艦長に選ばれたのが、海舟です。
海舟はアメリカの地で西洋の社会や文明に直接触れ、大きな刺激を受けて、帰国しました。
帰国した海舟は、軍艦奉行並に就任し、日本の海軍育成に奔走していきます。
この頃、幕府が行った開国には反対も多く、国内は外国人を排除する「攘夷派」と「開国派」の大きく二つに分かれて、争いが起こるようになりました。海舟も「開国派」の中心人物として、何度か命を狙われました。
それでも海舟は『「開国派」も「攘夷派」も同じ日本人である』と、区別することなく人材を集めては、海軍の操練に参加せ、これからの日本が進む道などを教えました。その中には坂本龍馬や後の外務大臣である陸奥宗光らがいました。海舟は幕府の人間だけではなく、各藩の藩士らや、龍馬ら浪人たちをも自身の門人として、学ばせていきました。
しかし「攘夷派」は過激さを増し、やがては幕府を倒す「倒幕」の動きとなってゆきます。
追い詰められた幕府はついに政治を行う権限を天皇に返上するのでした。
政権を返上した徳川幕府ですが、倒幕を目指した薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍との衝突は避けられず、とうとう戦争がはじまりました。
新政府軍が江戸へ向かって進軍してくる中、もはや敵の大将である西郷隆盛と話し合いができるのは、かつて分け隔てなく、各藩の要人らとも交流した海舟だけでした。海舟は西郷と面会すると「国内で争っていても外国が喜ぶだけです。薩摩とか幕府とかではなく、日本のためを考えてください」と説得しました。
そして、徳川の江戸城を新政府に明け渡すことで、江戸への攻撃は中止となり、前将軍・徳川慶喜の命も助かりました。こうして、江戸の町と人々は、戦火から免れたのです。
江戸での戦争は避けられ、時代は明治時代になります。
徳川家には静岡の地が与えられ、海舟も江戸を去りました。現在、静岡といえばお茶が有名ですが、これは静岡に移った徳川家の家来たちが、武士を捨て、お茶の栽培に努めたことがはじまりで、海舟たちの尽力によるものでした。
やがて海舟も新政府から呼び出され、東京に戻ります。新政府の海軍卿などを務めましたが、しばらくすると政府の職を辞め、庶民の立場に立ちながら、厳しく政府へ意見を発し続けました。何しろ、政府の要人には、かつての海舟の教え子たちがたくさんいます。海舟は厳しい監視役として、新しい時代を見守り続けました。
そして明治32年、75歳で病没しました。最期の言葉は「これでおしまい」だったといいます。